〈篠沢グループ〉も新年度を迎えた。 その中枢・篠沢商事の秘書室に、一人の女性新入社員が配属される。 彼女の名前は矢神麻衣(やがみまい)。何事にも一生懸命だけれど人見知りが激しく内気な彼女は絢乃や桐島などの上司からの評価も上々だが、実は大学時代の自称〝元カレ〟・宮坂耕次(みやさかこうじ)からストーキング行為を受けており、麻衣はそのことを誰に相談していいのか分からなかったのだ。 麻衣に想いを寄せ、陰ながら彼女を守っている同期入社の入江史也(いりえふみや)は彼女と宮坂の大学時代の同級生でもあり、この事態をどうにか解決しようと奮闘するけれど……。 果たして両片想いの爽やかな恋の行方は……!?
View More――夜八時ごろに母は帰っていき、さて、シャワーでも浴びようかと着替えとバスタオルを用意していたら、スマホにメッセージが受信した。 差出人は真弥さんだ。〈例のSNSの書き込みについて、さっそく明日から調べてみます。 あの投稿のスクショを撮って送ってもらえますか? 投稿主のプロフだけで大丈夫なので〉 わたしはさっそく言われたとおり、例の投稿のアカウントをスクリーンショットにしてメッセージに添付して返信した。〈これが投稿した人のプロフィールみたいだよ。調査お願いします〉 真弥さんからはすぐに、「ありがとうございます」と可愛いネコちゃんがペコンと頭を下げているスタンプが送られてきた。 わたしはスマホを充電ケーブルに繋ぎ、シャワーを浴びた。パジャマに着替えて髪を乾かすと、スマホを座卓の上に置いたままの状態で入江くんに電話をかける。『――もしもし、矢神? こんな時間にどしたん?』「入江くん。あの……、今日のお昼休み、ひどいこと言っちゃってゴメン。入江くんだってもどかしいんだよ? なのにわたし、自分の気持ちばっかり押しつけちゃって、ホントにゴメンなさい」『あー、あのことか。オレは別に気にしてねえからいいよ。謝るなよ。人任せにしてるのは事実だしな』「ううん、そんなことない! あれはわたしが言い過ぎたの。反省してる。……でも、わたしのことが大切だから心配してくれてるのも事実なんだよね?」『……お前なあ、そういう恥ずいことズバッと言うなよ』 入江くんがぶっきらぼうに抗議してきた。電話だから顔は分からないけれど、彼はきっと照れているんだと思う。「ゴメン……」『でも図星、かな。オレはお前のことすごく大事に想ってるから、お前をここまで怖がらせてるアイツが許せないんだよ。今まではずっと人任せにして逃げてきたけど、いざって時にはもうオレは人任せにしない。矢神のことは、オレが絶対に守ってやるから』「入江くん……、ありがと。やっとその言葉が聞けた」 彼のその言葉は、ハッキリと「好き」って言われたわけじゃないけれど、わたしにとってはもう彼からの告白と同じようなものだ。「入江くんがそこまで想ってくれてるだけで、わたし幸せだよ。だからもう、あんなこと二度と言わない。……わたしも、逃げてばっかりじゃいられないかな」『ん? 何て?』 わたしも彼のことが好きだって自覚
「――あれ? 鍵空いてる」 玄関ドアのレバーをガチャガチャやると、スッと開いた、――誰か来ているのかな?「ただいま……っと、ん?」 玄関にあるのは、キチンと揃えられた母の靴。ということは、来ているのは母らしい。わたしも母に倣(なら)って脱いだ靴をキチンと揃え、スリッパに履き替えて部屋に上がった。間取りはワンルームで、単身向け物件なのでユニットバスがついている。「あ、麻衣。おかえりなさい! 今日もお勤めご苦労さま」「ただいま、っていうかお母さん、今日はどうしたの?」「あんたが変な男につきまとわれてるって聞いたから、心配になってね。で、麻衣も仕事で疲れてるだろうから実家までわざわざ来てもらうのも何だし、たまにはこっちで一緒に晩ゴハンを食べようと思って」「それは嬉しいけど……、お父さんは?」「今夜は会社の人と飲み会ですって。帰りが遅くなりそうだって言ってた。というわけで、女ふたりでゴハンにしましょ。今日は奮発してお刺身買ってきたの。ゴハンももう炊けてるからね」「うん。じゃあ、わたしも着替えて手伝うよ」 母が冷蔵庫からお刺身のパックを出してお皿に盛りつけている間にわたしは部屋義に着替え、白いゴハンを茶碗によそった。ちなみに、両親の食器はこの部屋の食器棚にも常備してある。「いただきま~す! ――うん、このサーモン美味しいね♡ やっぱりお刺身とショウガ醤油の相性は最強♪」 わたしはワサビがダメなので、ショウガ醤油につけてお刺身を頬張る。次に、マグロの赤身に箸を伸ばした。「たまにはこういう贅沢もいいでしょ?」「うん! お母さん、ありがとう!」「ところで麻衣、最近仕事の方はどう? もう慣れた?」 母もイカのお刺身をつまんでから、いつかの電話と同じ質問をしてきた。「うん、だいぶ慣れてきたよ。だって、もうすぐ入社して一ヶ月だもん。明後日には初任給が入ってくるし」「あら、もうそんな時期なのねぇ。早いもんだわ」「でしょ? それでね、お母さん。今までここの家賃、全額お父さんに出してもらったけど、これからは半分ずつ返していこうと思ってるんだ。だから、わたしからの親孝行だと思って受け取ってほしいの。幸い、ウチの会社は初任給から高いみたいだし」「あんた、それで生活は大丈夫なのね? だったら遠慮しないでもらっておくわね」「うん、それは大丈夫。……よかった」
「でも、当時まだ十六歳か十七歳で未成年でしょ? 親御さんには何も言われなかったの?」「いや、めちゃめちゃ怒られましたよ。産婦人科から親に連絡が行って、父親には殴られました。ウチの両親、どっちも教育者で。あたしの気持ちより世間体の方が大事だったみたい。『何てことをしてくれたんだ! 親の顔に泥を塗りやがって!』って言われました」「ひどいなぁ、そんな言い方。親なら真弥さんのつらかった気持ち、少しくらい思いやってあげてもいいのに」 真弥さんの相手の男の人がどんな人だったかは分からないけれど、子供に罪はないはず。自分の意思で堕胎したとしても、その喪失感は想像を絶するもののはずなのに、娘さんのそんな気持ちを思いやってあげないなんてひどいご両親だと思う。「麻衣さん、ありがとうございます。でもね、ウッチーはあたしのそういうつらい気持ちとか虚しさを理解してくれたんです。『その空っぽのお腹には、君の虚しさが詰まってるんだな』って言ってくれて。『その喪失感はオレが埋めてやるよ』って」「わぁ、ステキ! そりゃあ嬉しいよね。そんなこと言われたら、わたしでも惚れちゃいそう」「でしょでしょ? でも、惚れちゃダメですよ!? ウッチーはあたしの大事な人なんですからね!?」「分かってるよー。わたしが好きなのは入江くんだけだから大丈夫!」 『――次の停車駅はー代々木ー、代々木でございます』 「……あ、次で降りなきゃ」 真弥さんと恋バナに花を咲かせていたら、次は代々木、という車内アナウンスが聞こえてきた。あたしは駅に停車したらすぐに降りられるよう、席を立って真弥さんの隣に並ぶ。 ――ただ、桐島主任には恋愛感情ではないけれど、憧れの感情を抱いていることは真弥さんにも内緒だ。 * * * * 「――麻衣さん、今日は何も起きませんでしたね」 無事にわたしをマンションの前まで送り届けてくれた真弥さんが、ホッとしたような、少し拍子抜けしたような様子で言った。「うん、よかった。やっぱり女同士だから何もしてこなかったのかなぁ」「いつもこんなに平和ならいいんですけど。――それじゃ、あたしはここで失礼しますね」「送ってくれてありがとう。なんかゴメンね、夕(ゆう)ゴハンくらいごちそうできたらよかったんだけど。今お給料日前だから……」「いえいえ、お気遣いなく」「明後日に初任給入るか
「そういえば、麻衣さん知ってました? 桐島さんが俳優の小(こ)坂(さか)リョウジを蹴り飛ばした動画あったでしょ? あれ、ホントはウッチーの役割だったんですよ。それを、桐島さんが急に乱入してきたんです」「えっ、そうだったの? 知らなかった。わたしは拡散された動画をチラッと見ただけだったから」 あの有名な(?)動画にまつわるエピソード――絢乃会長がイケメン俳優からつきまとわれていたことについてはわたしも聞いていたけれど、まさかあの件にも真弥さんと内田さんが関わっていたなんてビックリだ。「ええ。まあ、その件があったから、あたしたちと絢乃さん、桐島さんとの繋がりができたんですけど。あたし思うんですよね。あの行動って、絢乃さんを守りたいっていう桐島さんの愛情の表れだったんじゃないかって」「うん、わたしもそう思う。だからこそ、入江くんにもそうしてもらいたいんだけど……ムリなのかなぁ。もちろん、彼のもどかしい気持ちも分かってるつもりだけど、少しは主任を見習ってほしい」「好きな人がいたら、誰だってそう思うはずです。『大切な人を守りたい』って。それは男女関係ないです。あの件だって、最初は嫌がらせの被害に遭ってる桐島さんを守りたいって絢乃さんが依頼して来たんですよ。でも、桐島さんも守られてばかりはイヤだって思ったんでしょうね。……でも、『守りたい』っていう気持ちを行動に移せる人はなかなかいないです。それこそよっぽどの勇気がなければ」「…………うん」「その入江って人、麻衣さんを守りたいっていう気持ちがあるだけまだ幸せじゃないですか。その人には勇気がないだけなんです。でも間違いなく、麻衣さんは彼から大事に想われてますよ」「そう……だね。真弥さん、ありがとう」「いえいえ」 わたしは真弥さんの言葉に励まされた。そして、入江くんに対して申し訳ない気持ちにもなった。帰ったら、電話で彼に謝らないと。「真弥さんと内田さんはどうなの? そこのところ。っていうか、真弥さんは内田さんのどういうところを好きになったの?」「えっ? う~ん、話してもいいですけど……。引かないで下さいね?」「……うん」 〝引かないで〟ってどういうことだろう? もしかして真弥さん、とんでもない秘密を抱えてる?「実はあたし、子供を堕(お)ろしたことがあるんです。ちょうど去年の今ごろに」「うん……って、え
「――実はね、わたし、好きな人がいて。ボディーガードをしてもらうなら彼がいいってずっと思ってたの。高校の頃からの同級生で、入江くんっていうんだけど、今会社も一緒で。部署は違うけど」「はい」 電車の車内で運よく座席に座れたわたしは、目の前で吊革につかまって立っている麻衣さんに入江くんのことを話した。スーツ姿のわたしと、黒のパーカーにデニムのショートパンツ、黒タイツに厚底スニーカーの真弥さんの組み合わせ。周りの人からはどんな関係に見えるんだろう?「でもね、彼はこの件に関してずっと人任せなの。わたしにはそれが不満で、今日のお昼休みにとうとう彼に言っちゃったんだ。『どうしてオレが守ってやるって言ってくれないの?』って」「まあ、そりゃ言いたくもなりますよねぇ。好きな人に守ってほしいっていうのは、女子なら誰だって思いますもん」 真弥さんみたいに腕の立つ女の子でも、やっぱり守ってほしいものなんだ。多分彼女自身にも、内田さんに助けてもらったことがあったのだろう。「でしょ? ……でもね、彼の気持ちも分からなくもないの。ストーカーってわたしたちと同じ大学の同級生で、もう三年も前からわたしがつきまとわれてたこと、彼もよく知ってたから。『アイツを目の前にしたら自分がどうなるか分からないから怖い』って言われた。わたしも、元同級生同士が修羅場になるのは見たくないし、彼がそんな男のために暴力を振るうのもイヤなの」「う~ん、麻衣さんは優しすぎるのかなぁ。これはあくまであたしの持論ですけど、人様に迷惑かけて怖い思いをさせてるストーカー野郎には、鉄拳制裁くらい食らわせて当然ですよ。それが麻衣さんを守るためだったらなおさら」「そうかもしれないけど……、やっぱり暴力はよくないと思う、話し合いで解決できるのがいちばんいいと思うんだけどな」「それができるような
――定時間際、わたしは予(あらかじ)め連絡先を教えてもらっていた真弥さんにメッセージを送った。〈もうすぐ仕事が終わります。迎えにきてもらっていいですか?〉〈分かりました。お疲れさまです。 今からそちらのビルに向かいます。あたしは外で待ってますね〉 彼女から返信がきたところで、ちょうど終業のチャイムが鳴った。 わたしは急いで帰り支度を整え、まだ仕事を終えていない主任に声をかける。会長秘書とはいっても、ずっと会長室に詰めているわけではないのだ。「――主任、お疲れさまでした。真弥さんが迎えに来てくれるそうなので、わたしはお先に失礼します」「お疲れさま、矢神さん。――そういえば、午後からちょっと元気ないみたいだったけど、大丈夫? 何かあった?」 つくづく、この人の洞察力には恐れ入る。彼が主任になられた理由もこのあたりにあるのだろうか。「……ちょっと、お昼休みに入江くんとやり合っちゃって。彼を傷付けてしまったみたいで後悔してるんです」 わたしは昼休みの社食での、入江くんとのやり取りについて主任に話した。「……入江くんも、そうしたくてわたしのことを人任せにしてるわけじゃなかったんだって。彼も彼なりに悩んでるんだって分かったら、わたし、彼に言ってはいけないことを言ってしまったんだって。何だか彼に申し訳なくて」「うん……。でも、それが君の本心なんだよね? そして、『自分がどうなってしまうのか怖い』って、それが入江くんの本心なんだろ?」「はい」「だったら、お互いの本心を知れるいい機会だったんじゃないかな。たとえ親しい間柄でも、なかなか本心が言えないこともあるからね」「そうなんですね……。あの、会長と主任もそう……なんですか?」「いや、僕らはそんなことないけど。――ほら、もうすぐ真弥さんが迎えに来るんだろ? そろそろ行かないと」 彼女たちの事務所は新(しん)宿(じゅく)にあるらしいけれど、丸ノ内までそんなにはかからないはずだ。「そうですね。それじゃ、失礼します。また明日」「うん、また明日。待ってるよ」「はい」 わたしは室長や小川先輩、他の先輩方や同期のみんなにも挨拶をして、秘書室のオフィスをチェックアウトした。 エレベーターで一階まで下りてエントランスを抜けると、ビルの外に待っていたのは真弥さん一人だった。「――麻衣さん、お仕事お疲れさ
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